生き辛さと生き易さのルール

年末年始は、地方あるいは田舎をひたすら回る旅行となった。

行ったことの無い県、降りたことのない駅にチェックマークをつけるかのように移動して回った大移動の一週間であった。

 

旅行で気づいたことがある。

普段は首都圏にいるが、地方へ行くと強いタバコの臭いにすぐ気付く。

 

首都圏は分煙そして禁煙が進み、また電子タバコが普及したことによって酷い臭いや煙を吹きかけられる機会は、以前に比べてだいぶ減ってきた。

しかしそれは歩きタバコで過料を課されるくらいの地域での話。そうでない地域は駅も飲食店も街全体も、どこかしらかタバコ臭い。

「まだicosが流行ってないようだ」とよく話しながら街を歩き回っていた。

 

 

街には人は少ないが、ショッピングモールにはたくさんの人がいる。

n=1の観測範囲ではあるものの、毎日の通勤で訓練された都会の民とは違って思い思いに歩くものだから、規格の同じ通路幅でも大混雑したかのような歩き辛さを感じてしまう。

首都圏でも郊外にショッピングモールはあるが、都心へ通勤しているからか人の流れが出来る。地方にはそれが無いようだ。

 

タバコの件然り歩きやすさ然り、やっている自分は楽であるが他人にとってはそうとも言えない場面にいくつか出くわすことがあった。

 

そうした都会との大きな違い、それは多様性への配慮だ。

 

気を使いはやがてルールとなり秩序となる。そして最後は上澄みのキレイなものだけが残る。田舎には無い。特に交易が少ない地域はその傾向が滲み出ると感じた旅行だった。

 

多様性はカオスを生むと思っていたが、それは間違いのようだ。

多様性から配慮が生まれ、マナーとなり、ルールが決められ、悪いものとしたものには罰が設けられて結局はシンプルに統制される。

 

田舎にはそれがない。ここはおらん家だ、以上。なのである。

どこの誰だか知らねぇ奴がわざわざおらん家まで来てガタガタうるせぇこと言うんじゃねぇという、一旦冷静に考えると至極当たり前なスタンスであるにすぎない。

 

しかし家の中でさえ、たとえ遺伝子は同じでも別々の人格を持つ人間が集まればルールは必要だ。家主の言うことを聞いてればいい、それもルールである。

 

どのような単位でも、意識してもしなくても、何らかのルールの中で生きている。

そのルールから外れるということは生き辛いことであり、ルールに従ってさえいれば生き易いということでもある。

 

朝の品川駅で人が流れる方へ一緒に歩いていけば歩きやすいだろう。

強い家長制度の中では父親に従っていれば生きやすいだろう。

 

そうでないとしたら、抵抗はある。一人で反発して右側通行と左側通行が変わるなどルールが変わることはない。したがって、そこから出ていくしか無い。

 

出ていった先にもルールはある。

 

自分に合うルールを探しに旅立つか、そのルールに自分を合わせる旅に出るか、どちらも常に突き付けられる選択肢だ。

 

会社だってそうだろう。制度が、上司が、合わないなら転職するしか無い。

合わないものは合わない、辛いものは辛い。

 

心を殺して会社の犬になれる人もいるが、はっきり言ってあれは一つの才能だ。やりたくても出来ない人の方が圧倒的に多い。忍耐力や社交性の問題というよりかはその人は適正が合ったという結果論でしかない。

 

 

どんな人も受け入れられるような優しいルールはあるだろうか。

それは東京のような多様性の中で磨き上げられた上品な上澄みのレールに乗るか、オラはオラだと自分を軸にして生きていくか、結局のところどちらかを選ぶこととなり、両方を混ぜることはできない。TPOによってそれを切り替えていくのがスマートなやり方だろう。

 

 

平穏に生きていくにはルールが必要でありルールに従わなければ混沌としてしまう。

そのルールは様々であるから切り替えていかなくてはならない。

ルールがなければ混沌とする、ルールを混ぜれば発狂する。

あのルールとそのルールは違うのだから、過去の発言内容との整合性一致を求められても合わせる必要などはない。

生き辛さと生き易さはこうしてルール制御をして切り替えることならできる。旅行で地方に滞在しているのなら現地のルールに従い、旅行から帰ってくれば都会のルールに従うように。